エネルギー転換の歴史 − 最初の40年

多くの人たちが、ドイツのエネルギー転換(Energiewende)は、日本の福島第一原発事故を受けて、アンゲラ・メルケル首相が脱原発を決めたことから始まったと思っています。しかし、Energiewendeは、政府がそれ以前に決めていた脱原発の計画に戻ってきたことに他なりません。ドイツの歴史と社会に深く根付いた長いプロセスは、自然エネルギーの大幅な増加を引き起こす政策を創り出し、いまや低炭素経済への移行の中心的な駆動力となっています。

エネルギー転換のハーフタイム」:環境シンクタンク・エコ研究所による自信にあふれる祝典のタイトルは、アンゲラ・メルケル首相による2011年の福島第一原発後の劇的な決定について、忘れられていた多くのことをよく表していました。いまや2050年までに経済の脱炭素化をめざすこととなった社会的プロジェクトは、メルケル政権が原子力発電からの離脱計画を復活させる数十年前からはじまっていました。

エネルギー転換 - 社会と経済の全面的な変容 - は、長期にわたる草の根運動、事実にもとづく議論、気候変動への関心、主要な技術の発展、そして、ドイツとその他の地域で試みられてきた実践の経験などから生じたものです。(時間軸はこちらを参照)

草の根の抵抗

エネルギー転換の起源はさまざまあるのですが、ひとつの強力なきっかけは1960年代の学生運動から続いて西ドイツで起こった「新しい社会運動(New Social Movement)」でした。

反原発運動は、数年後にエネルギー転換と呼ばれるようになる一連のモノゴトにとって、もっとも重要な新しい社会運動でした。反原発キャンペーンは、1973年にドイツの黒い森に近く、スイスとフランスに接するワイナリー地域のもっとも南西の端でおこった出来事から生まれました。そこには、ヴィールという小村があり、そこでは地域のワイン農家が、近隣のフライブルク大学からやってきた活動家や、フランスやスイスで関心をもつ市民などが原子力発電所の建設を阻止する動きを組織しました。彼らはまずはじめに建設予定地を占拠し、警察が彼らを強制排除し、その様子が全国にテレビで放映された後、電力会社がこれを法廷に持ち込み、最終的には取り下げられました。

それまで、西ドイツの電力会社は、連邦レベルの政治エリートの十分な支援のもとで、国家のエネルギー供給の基礎とすべく、原子力発電の計画を徐々に実行に移しつつあるところでした。キリスト教民主党と社会民主党のいずれの主要政党も、原子力発電の導入を支持していて、なかには安全でクリーンな技術がいつかエネルギー費用をなくすだろうと主張する者もいました。1956年の社会民主党の決議文では「原子力は、今日いまだに暗闇で生きる数億の人々に恩恵をもたらすことができるだろう」と述べられていました。

しかし、戦後西ドイツでは、すでに核分裂をめぐる問題に対する敏感な反応があり、批判的な議論のもとで停滞が生じていました。1950年代から1960年代はじめにかけて、西ドイツ領土内の駐屯地にNATOが管理する核兵器を置いていいのかという冷戦への反対がいくつかの国レベルの平和運動から現れていました。世界中から、プロテスタント教会、労働組合、退役軍人、左翼活動家などが核兵器製造に対する倫理的な抗議、とりわけ、東西紛争の軍事的な最前線となっていたドイツに結集しました。ドイツが原子力発電について敏感であることのひとつの理由として、早くから戦後の核兵器に対する批判が核融合の民間利用と結びついていた点があげられます(1980年代のドイツの平和運動の第二波も若い世代の反原発の動きを開花させました)。

「ヴィールでの抗議が反原発運動とエネルギー転換を形成したと言っても過言ではありません」と、新しい社会運動のリーダーで、活動家のエヴァ・キストープは述べます。「すべての運動は直接影響を受ける場所、地域からはじまります。運動の中心には、農家、ワイン醸造家、家庭、主婦、そして、教会信者がいました。学生と専門家も貢献しましたが、運動の推進力は市民の自己組織的なイニシアチブによるものでした。」と彼女は述べ、数十年にわたる粘り強い抵抗を説明します。エリートの男性支配的な学生運動とは異なり、新しい社会運動は性別、年齢、イデオロギーを超えて拡がったことにキストープは言及します。

ヴィールを超えて、ゴアレーベン、グンドレミンゲン、ヴァッカースドルフ、グローンデ、ブロックドルフといった西ドイツで原子力発電に関連する地域では、原子力の危険性について、また、その拡大を阻止する可能性について、自ら情報を伝えはじめました。

過去に、一般的なドイツ人にとって、エネルギーはとりたててなにか知っておく必要のある問題ではなかったとキストープは述べます。「しかし、一般の人たちが、核廃棄物処分の問題、冷却塔からの温排水による河川温度上昇の問題、放射能とガンの関係、そして、メルトダウンやその他の事故の影響といったような、技術的な問題について資料を読んだり、話し合ったりしはじめました。」

原子力への関心の高まりに応じて、学術研究者やその他の専門家たちは、根拠をもった研究をはじめたり、1977年にフライブルクで設立されたエコ研究所のようなオルタナティブな考え方の研究所やシンクタンク、ワーキンググループを立ち上げはじめました。それらの創設者のなかには、運動集団から現れたミヒャエル・セイラーやライナー・グリースハマーといった人たちがいました。(今日、エコ研究所はドイツにある数十社のグリーンシンクタンクのひとつに過ぎません。エコ研究所は、国内3ヵ所約100名の研究者を含む、155名のスタッフを雇用しています。)

ドイツでは「Day One」という反体制活動のなかに正真正銘の専門家がいました。例えば、ホルガー・ストロームは多作のサイエンスライターであり、1971年に『安らかに破局へと向かう:原子力発電所についてのドキュメンタリー(Friedlich in die Katastrophe: Eine Dokumentation über Atomkraftwerke)』を上梓しています。これは原子力施設の民間利用の技術的側面の詳細を1,300ページにわたって書いたもので、西ドイツでは64万部を売り上げました。世界で最初の「未来研究者」のひとりであるロバート・ユンクのベストセラー『原子力国家(Der Atom-Staat)』では、ウランの民間利用と軍事の関係が検証されました。

原子力技術者のクラウス・トラウベは、60~70年代のドイツと米国の原子力導入において主導的な立場でかかわってきました。その仕事のなかで、原子力産業界は認めようとしない危険性がヒューマンエラーに起因する事故の中にあることを彼は目撃し、考え方を変えることになりました。1979年の米国スリーマイル島の惨事の後、トラウベ(および、それまで原子力に賛成していたSPD)は立場を転じ、原子力発電の技術的側面に関する貴重な情報を運動に提供することとなりました。

ベルリン自由大学の政治学者でエコロジーシンクタンク前所長のルッツ・メッツは次のように説明します。「欧州の他の反原発運動には、原子力産業界から来たトラウベのような人物はいませんでした。そして、彼らはドイツの活動家たちが原子力の詳細をよくわかっていることに感銘を受けていました。トラウベの著作はドイツ国内で広く読まれ、日曜のTVトークショーで議論されるほどでした。」

エネルギー危機

1970年代当時、世界のエネルギーの未来についての議論の焦点は気候変動ではなく、エネルギー危機でした。

第四次中東戦争(1973年)およびイラン革命(1979年)で西側諸国がイスラエルを支援したことをきっかけに、石油を産出する中東諸国が劇的に石油価格を引き上げ、供給を制限したことから、西ドイツを含む世界の主要な先進国は多大なダメージを受けました。エネルギー危機の結果として、その10年間は経済成長の停滞と不況の長期化を目の当たりにすることとなりました。他の国々と同様に、西ドイツでも日曜日に航空、自動車、船舶の利用が禁止されました。1973年の南ドイツで人通りのない都市の路上で馬がフォルクスワーゲンのバンを引いている写真が象徴的なイメージとして残されています。

エネルギー危機は、世界的なシンクタンクであるローマクラブが1972年に発表し、幅広く読まれたレポート「成長の限界」の知見を裏付けました。ドイツ語やその他多くの言語に翻訳されたこのレポートは、多彩な議論を喚起し、世界人口の増加は危険なペースで資源を使い尽くし、すぐに世界経済が行き詰まってしまうだろうという考え方が広がりました。

このレポートとエネルギー危機の警鐘は、国によって異なる反応を引き起こしました。デンマークは自然エネルギーへの転換をはじめました。米国は民主党のジミー・カーター大統領のもとで大規模な研究資金を自然エネルギー開発に充て、ホワイトハウスの屋根に太陽光パネルを設置しました。NASAによる研究は世界ではじめてのメガワット級の風力発電をつくる上での先進的技術の改善に大きく貢献しました。(基本的に、これが今日世界中で使われている風車のモデルとなっています)また、エイモリー・ロビンスのような米国の独立した研究者たちは、従来エネルギーの代替となる「ソフトエネルギー」を、どのようなコストでも普及させる理論の構築にとりかかりはじめました。

しかし、西ドイツはフランスと同じく、ますますエネルギー生産を化石燃料から原子力へと移行させることを決めました。メッツは「エネルギー安全保障のため「石油から原子力へ」という考え方だった」と述べます。

この移行はドイツのエネルギーの将来に対して矛盾した影響を与えることとなります。「それによって、それまでガスや石油といった従来エネルギーの分野で働いていた多くの優秀なエネルギー専門家たちが業界を去ることになりました。」とメッツは述べます。「彼らは自然エネルギーで試行錯誤することを選びました。これがドイツで起こる太陽光発電や陸上風力発電の多くの重要なイノベーションの背景となったのです。」

1970年代を通じて、西ドイツの反原発運動は劇的に成長しました。女性運動、平和運動、環境運動などの新しい社会運動の活動家たちは、反原発運動に共通の動機を見出し、反原発運動もそれらの運動に共通の動機を見出しました。環境運動は、反原発運動のキャンペーンよりも多様で緩い体制でしたが、環境汚染対策、環境保護、リサイクリング、グリーンな経済成長、生物多様性、持続可能な開発、環境に優しいライフスタイル、有機農業などといった、後のエネルギー転換や気候変動対策と通じる多くの問題を主題としていました。

「新しい社会運動にとって、当初、自然エネルギーはそれほど重要なテーマではありませんでしたが、彼らは、汚い化石燃料ではない、原子力の代替を提案しなければならないことを理解していました。」とドイツの社会学者ディーター・ルヒトは説明します。さらに、彼らは当初から自然エネルギーが巧みに組み込まれたオルタナティブな社会の全体像を描いていたことも述べています。そのビジョンは「分散型の構造、ボトムアップのプロセス、参加型民主主義、環境に配慮した経済といった考え方にもとづく社会であり、エネルギーはその適用のひとつでした」と彼は述べます。

1980年、フライブルクを拠点として、米国の自然エネルギー先駆者ロビンスと仕事をした3人の活動家たちが『エネルギー転換:石油とウランのない成長と反映(Energie-Wende – Wachstum und Wohlstand ohne Erdöl und Uran)』という書籍を出版しました。この言葉は、アンゲラ・メルケルが福島の原発事故後に使う約40年前に、環境派の左翼グループがつくり出したものでした。この書籍は、「エネルギー転換」というトピックについて国内各地で学ぶ人々のグループに刺激を与え、ドイツでの化石燃料と原子力の必要性を減らす方法としての省エネルギーの主な指針となりました。

ゴアレーベン、ブロックドルフ、カルカーなどでおこなわれた1970年代の大規模な反原発デモには、関心をもつ市民数万人が集まり、公開討論会のような国民的議論を巻き起こしました。それでも、運動はヴィールでの劇的な成功を繰り返すことはできませんでした。

「ほとんどが敗北だった」と、ヴィール後の数年にわたって反原発運動が成果の上がらない戦いを挑んでいたことについて、ベルリンにあるハインリッヒ・ベル・アーカイブのディレクターを務めるクリストフ・ベッカー・シャウムは言及します。「運動は街頭では莫大な数の人々から支持を得ることができたが、多くの場合、権力と法の前で原子力産業を打ち負かすことはできませんでした。」活動家たちは、政策に影響を与えたり、政治家を味方に引き入れたり、複雑な法律の領域で交渉するといった仕事をおこなう専門家とわたりあうための職業的な訓練を受けていなかったのです。

<次ページに続く:ドイツの環境政党

ページ: 1 2 3