エネルギー転換の歴史 − 最初の40年

ドイツの環境政党

大衆社会運動の活動家、さまざまな市民のイニシアチブ、また、ヨーゼフ・ボイスのようなアーティスト、かつての学生リーダーだったルディ・ドゥチュケ、作家のハインリッヒ・ベルなどは、政治や政策立案といった場に影響を与える必要があると結論付けており、それは彼ら自身の政党をつくるということを意味していました。70年代後半を通じて、活動家たちは「グリーン」や「オルタナティブ」といった政党をつくり、地方選挙に候補者を出しました - そして、彼らは議席を獲得したのです。1979/1980年には、彼らは国政政党を立ち上げ、「緑の党」と名付けました。そのシンボルはひまわりでした。その戦略は、片方の基盤をしっかりと社会運動に根差し、もう片方の基盤を政治の分野にもつことでした。

緑の党の誕生により、反原発運動と自然エネルギー支持者たちは国内全域で彼ら自身の議員をもつことになりました - そして、1983年には国会議員をもつことにもなりました。緑の党は、ドイツの脱原発を旗印に高く掲げ、新規原子力発電所の建設停止、核廃棄物貯蔵問題の見通しを明らかにすること、原子力の安全性を高めること、原子力と化石燃料の代替を提示することなどを、政府のあらゆるレベルで推し進めることを目指し、国際的にも主張しました。

緑の党と新しい社会運動が成熟するにつれて、自然エネルギー、省エネルギー、環境に優しいライフスタイル、持続可能な開発、オルタナティブな交通、スマートな郊外デザインなどは重要性を増し、より具体的になりました。緑の党、学術専門家、シンクタンクはビジョンを現実的な政策提言へと落とし込む作業に専念することとなりました。

ベッカー・シャウムによれば、緑の党の最初のプログラムは、再生可能な自然資源からエネルギーを生み出す革新的で独特な提案に満ちていたとのことです。「初期の緑の党には、近所のよろず屋のような人がたくさんいました。彼らは電気、暖房、貯蔵、コジェネなどの実験をしていました。なかには水素が解決策だと考える人もいました。」と、すでに従来エネルギーの代替案に挑戦していたことが述べられています。ベッカー・シャウムは、初期の緑の党はエネルギーだけでなく他の分野についても「スモール・イズ・ビューティフル(small is beautiful)」というスローガンを掲げ、多数の小規模な地域の生産者が分散型の自然エネルギーを供給する前兆を描いていました。

チェルノブイリと気候変動

草の根運動は原子力とオルタナティブについての議論を切り拓いてきたかもしれませんが、1986年4月、当時ソ連だったウクライナで起きたチェルノブイリ原子力発電所のメルトダウンは、議論を急速にまったく新しいレベルへと変化させました。原子力災害は、北部ドイツの大半を含む中央ヨーロッパ全域に放射性物質の雲を送り出しました。ソヴィエトによる事故のアナウンス失敗、ドイツ政府の初動の遅れ、そして、健康リスクに関する不安があいまって、国内はパニックに陥りました。西ドイツの人々はテレビにくっついて離れず、天気予報と汚染の対処法についての手がかりを渇望しました。妊婦は室内に留まるよう強く勧められました。

「ドイツ人は完全にショックを受けました。」と、チェルノブイリの後に「ボビー・ユーイングが死んだ日( The Day Bobby Ewing Died)」というドイツ映画を制作した監督ラース・イェッセンは述べます。「多くの人々が何日も家から外出しませんでした。まるで再び戦争が起こり、防空壕に隠れているかのようでした。ニュースでは、ずっと各地の最新の放射線量を伝えていました。親が砂場が汚染されていることを恐れたりして、子供たちは野外で遊ぶことができませんでした。」

ベッカー・シャウムは、チェルノブイリがドイツ人の原子力発電に対する考え方を変えた歴史的な転換点だったと述べます。原子力災害と放射能汚染は、それまで原子力を支持していたり、態度を保留していた多くの保守派、労働組合、中道の中産階層市民の考え方を変えました。西ドイツの当局による遅く誤った対応は、彼らがそのような災害に対応する準備ができていないことをよく描き出していました。実際、牛乳や乳製品の摂取を控える警告を出すまでに数日かかっていました。(東ドイツでは、当局は大災害を軽視して「事件(incident)」と呼んでいました。また、ある見出しには「専門家によれば、東ドイツではチェルノブイリによる危険はありません」と書かれていました。)ベッカー・シャウムは、チェルノブイリ以降、ドイツ人の大多数が原子力発電に反対するようになり、この合意は次の10年間で展開することとなる。

多くのフォローアップ研究が、ドイツ人は過剰反応したわけではなかったことを示しています。ほとんどの放射性物質の降下がウクライナで起こった一方で、西ヨーロッパの食物連鎖も影響を受けていました。世界保健機関が事故から20年を記念して発表したレポートでは、放出された放射性物質の大半は「10日間浮遊し続け、欧州の20万平方メートル以上を汚染した」と述べられています。またレポートは「森や山のなかの動物や植物は放射性セシウムを多量に吸収しており、きのこ、ベリー、狩猟対象の動物は継続して高いレベルで吸収している」ことを明言しています。(放射性セシウムは化学セシウムの放射性同位体)高濃度の放射性セシウムが災害現場から遠く離れたドイツやスカンジナビアの湖の魚から見つかったこともレポートは示しています。

政治学者で初期のエネルギー転換の父のひとりであるヘルマン・シェアのように、反原発の声を上げる者が党内でも少数でしかない中で、チェルノブイリは社会民主党にとっても決定的な機会となりました。「党内ではますます意見が割れ、原子力からは少しずつ離れていきました。」と、ヘルマン・シェアの娘で社会民主党の現役国会議員であるニーナ・シェアは述べます。「しかし、チェルノブイリがすべてを変えました。社会民主党は、党として原子力発電に対する姿勢を変えました。」

チェルノブイリほど劇的ではないものの、1986年には気候変動の議論もドイツでも巻き起こりはじめました。ポツダムの持続可能性高等研究所で学際的エネルギー気候パネルのリーダーを務めるセバスティアン・ヘルゲンベルガーは、ケルン大聖堂の半分が水に埋まっている様子が1986年のシュピーゲル誌の表紙に載ったことが重要な瞬間であったと見ています。「これがドイツでの気候変動に関する議論のはじまりとなりました。」

ドイツ人は、気候変動が抗しがたい人為的な脅威であることを比較的早くから理解していたとヘルゲンベルガーは述べます。「ドイツでは科学への信頼が厚く、ドイツ人はこの問題を真剣にとらえました」と彼は述べ、気候変動に対する政府間パネル(IPCC)が1990年に発表した第1次レポートを含め、1980年代後半から1990年代にかけて発表された研究がドイツではよく読まれていたことにも言及します。しかし、「気候変動問題を立法府のテーブルに持ち込んだのは緑の党でした。彼らはドイツ国家の問題として制度的に対応することが必要であるとして、その後の数年にわたって他の政党にも働きかけました」と彼は強調します。

米国での自然エネルギーをめぐる喧騒は共和党政権の発足と同じくして1980年代には衰退しました。(ロナルド・レーガン大統領はカーター前大統領が設置したホワイトハウスのパネルを1986年に撤去しました)その一方で、ドイツ北部やデンマークでは急速に進んでいました。「ドイツ人は、デンマーク人が風力発電で実現させていた驚異的な進展を見聞きすることができたのです。」とルッツ・メッツは述べます。

1991年、ヘルムート・コール首相と中道右派政権は自然エネルギーへの投資を促進する固定価格買取制度を世界ではじめて制度化しました。「その当時は限定的な政策でしたが、その後につながるものとなりました」とメッツは述べ、それは主に小水力発電を拡大する効果があったことに言及します。メッツによれば、この政策はチェルノブイリの結果として固まった、ドイツが自然エネルギーを推進し、原子力に反対するという合意を強調するものとなりました。それは、1986年以降は西ドイツで新規の原子力発電所は計画・建設されていないことからも示されています。

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