エネルギー転換の歴史 − 最初の40年

赤緑のドイツ

1998年秋、ドイツの人々は16年間政権を担ったコールの保守派を投票によって退陣させ、社会民主党と緑の党による連立政権を誕生させました。「赤緑」政権はすでに多くの自治体やいくつかの州政府で存在していましたが、1998年の選挙は国の根本的な転換を示しました。連立政権は、気候変動対策、自然エネルギー拡大、省エネルギーといった持続可能性にかかわる政策群を「エコロジー的近代化(ecological modernisation)」のもとで推進していくことを約束しました。

2つの党による政権の最初の大仕事は、原子力の段階的廃止と自然エネルギーへの投資推進という画期的な法律を通すことでした。

2000年に最終決定した脱原発は、国内の原子炉(ドイツの総電力の35%に相当)を30年かけて段階的に閉鎖するという、電力会社との妥協案になりました。評論家たちは反原発運動のこの上ない勝利だと見ていましたが、活動家や多くの緑の党の党員たちは長期の転換期間を裏切りと見ていました - もし保守派が再び政権に戻れば、電力会社に合意を見直す余地を残すことになります。彼らは、ドイツの原子力時代を即刻終わらせるために、何年もの間バリケードをつくり、冬の夜にも勇敢に核廃棄物輸送を阻止しようとしてきたのであり、30年もかかる道のりをつくることを望んでいたわけではありませんでした。

自然エネルギーについては、自然エネルギー法(EEG)が2000年に通過し、高い投資コストゆえに市場で従来エネルギーに競合できなかった自然エネルギーを幅広く促進する本格的な固定価格買取制度が確立しました。これは賦課金によって市場価格と生産コストの差を補い、投資を促進させる政策です。また、この法律は、定められた価格で自然エネルギー由来の電力とガスを買い取ることを系統運営者に義務づけています。政府の目標は2010年までにドイツの総電力需要の12.5%を自然エネルギーで供給することでした。驚くべきことに、激しい論争となった脱原発とは異なり、後にドイツを世界の自然エネルギーリーダーへと押し上げたこの法律は、実質的にまったく注目を集めず、国会での反対もないままに通過しました。

エネルギー転換の基礎を準備することとなったもうひとつの要因は、国レベルで電力やガスの市場を開くように設計された1990年代後半のEU指令でした。それらの指令は、それまで著しく独占体制となっていた分野の競争を促進し、エネルギー価格を引き下げることを目的として、規制緩和とEU圏内各国のエネルギー市場の自由化を要求しました。(ドイツでは「Big Four」と呼ばれる4つの巨大電力会社がほぼすべてのエネルギー生産設備と送電網を所有していました)もうひとつの指令は発電設備と送配電インフラの所有権について「発送電分離」を主題としていました。

これらの指令はドイツ国内の法律になり、数年かけて発電と送配電の独占体制は効果的に分解されていきました。これが多くの小規模自然エネルギー事業者の市場参入を切り拓き、顧客は自らのエネルギー供給者を選べるようになりました。今日、ドイツの電力市場には1,000社以上が参加しており、その大多数が自社の発電設備や供給ネットワークを所有していません。さらに、エネルギー転換のキープレイヤーである連邦ネットワーク規制庁(Federal Network Agency)が、そのプロセスのなかで1998年に設立されました。連邦ネットワーク規制庁の使命は、公平な競争環境の確保や送電ネットワークの監督といったことも含めて、電力とガスの市場を規制することです。

赤緑政権が現れ、2005年に退陣するまでの間、ニュースの話題は景気低迷といったエネルギー以外の問題が占めていました。しかし、固定価格買取制度や自然エネルギーの優先接続といったかたちで蒔かれた種は、新しく自由化された市場で根を下ろすことになりました。農家、協同組合、市民グループ、中小企業といった、多くの小規模なアクターたちが、太陽光発電、太陽熱温水器、バイオマス、陸上風力発電といったグリーンエネルギー技術への投資をはじめました。ドイツの自然エネルギー電力の割合は2007年には14.2%へと急増し、当初の目標をはるかに上回るペースで普及が進みました。

「自然エネルギーがそれほど早く、多く急増するとは誰も予想していませんでした」とニーナ・シェアは述べます。「固定価格買取制度は本物の草の根市民運動を生じさせました。ドイツの人々はエネルギー転換を自らのプロジェクトへと昇華させたのです。」

固定価格買取制度の成功(2010年には自然エネルギー電力の割合は17%まで増加)の要因のひとつは、特定の技術を優先しなかったという事実があると、シェアは述べます。「マスタープランがあったわけではなく、むしろ全般的な方向性と自然エネルギーの優先接続を含むサポートスキームがありました。2000年時点で、太陽光発電のコストがこれほどまで劇的に下がり、エネルギー転換の主力となるとは誰も予期していませんでした。」

2010年、アンゲラ・メルケルが主導する中道右派政権は、自然エネルギー、省エネルギー、CO2削減、低炭素交通についての野心的な目標値を設定したエネルギーコンセプトを策定しました。しかし、政府は「橋渡し技術」としての原子力なしで自然エネルギーを急速に拡大することはできないという見方を維持していました。そして、同年、国内の原子炉の稼働年数を10年以上延長する法案が通過し、赤緑政権の段階的廃止からの著しい変更がなされました。

2011年3月11日、地震と津波によってメルトダウンした日本の福島第一原発を見て、世界は衝撃を受けました。原子力災害は、物理学の専門家であるメルケル首相を深く不安にさせ、国内でもっとも古い原子炉3基を即時閉鎖し、2022年までに前倒しで段階的に脱原発を実施する新しい計画を策定しました。

「科学者として、メルケルは気候変動と原子力の危険性を理解していました」とドイツ環境諮問委員会(SRU)の委員長を務めるマーティン・ファウルスティッヒは述べます。「彼女はドイツや日本のような先進国でメルトダウンが起こるとは思ってもいませんでした。彼女が信頼できるのは、まさにそのような事態が起こったとき、彼女は素早く行動し、時間が経ってしまえばおそらく不可能であった道筋をつけた点にあります。」

メルケルが頻繁に「エネルギー転換」という用語を使いはじめたのは福島原発事故以降のことです。2011年秋、政府はエネルギーコンセプトを強化し、いくつかの目標と時間軸をより野心的なものへと置き換えました。2014年、メルケル主導の新たな中道左派政権は自然エネルギー法を改訂し、固定価格買取制度の価格を引き下げ、新たな導入のコリドーを定め、エネルギー効率化により多くの予算を充てました。

ベルリンを拠点とするシンクタンクのエコロジック研究所の創設者で前所長のアンドレアス・クレーマーは、エネルギー転換を理解しようとするとき、「ドイツは他の国のように原子力発電に夢中になっていたわけではない」点をよく見ることが重要だと述べます。さらに、クレーマーは、ドイツ人は自らを「良い行いをすべきという義務感覚をもつ世界の市民」であると考えていると述べます。

「ドイツ人は、世界の人々が学ぼうとするエネルギー転換のモデルを誇りに思っています」と、コストへの不安がありながらも、一貫してエネルギー転換への賛成割合が高い理由をディーター・ルヒトは説明します。「しかし、それが成功したかどうかわかるのは、いまから20~30年後になるでしょう。」

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著者ポール・ホックノース(Paul Hockenos)

ポール・ホックノースは Clean Energy Wire フリーランスコントリビューター。彼はエネルギー問題について国際的にさまざまな誌面に寄稿しており、ブログ Going Renewable の著者でもある。主著に Joschka Fischer and the Making of the Berlin Republic: An Alternative History of Postwar Germany (Oxford University Press)。

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元記事:Clean Energy Wire “The history of the Energiewende, Energiewende – the first four decades” by Paul Hockenos, Jun 22, 2015. ライセンス:“Creative Commons Attribution 4.0 International Licence (CC BY 4.0)” ISEPによる翻訳

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