3.11後の日本のエネルギー×デモクラシー

佐々木 3.11という経験が、いわゆる民主主義そのものの再定義を迫っているというお話だったと思います。それから、先日9日に洪水のニュースもありましたが、民主主義に加えて、そもそも私たちにとって「安全とは何か」という問題も、現在再浮上していると思います。

例えば昨今の「安保法制」の問題も、私たちにとっての「安全」とは一体何であるのかを問いかけています。それから今小林さんがお話されたように、そもそも「正義」とは何であるのかという問題もあります。つまり、「民主主義」・「安全」・「正義」などの非常に基本的な概念が3.11後さらに問われています。またそれらの基本的概念の定義を決めるのは誰なのかという問題もあって、来たるべき新しい社会では、私たちひとりひとりがその決め方そのものをも決めていかなければならない。うかがっていて、現代はそういう状況なのかなと再確認しました。それでは次に、平川さんからお話頂きたいと思います。よろしくお願いします。

誰がどのように決めるのか

平川 みなさんこんにちは、平川です。私とISEPとの関わりはどちらかというと飯田さんとの個人的な関係です。現在、私は大阪大学に所属していますが、以前は京都女子大学というところにおりまして、そこで2000年に新しい学部が立ち上がり、飯田さんとはそこで同僚になりました。それ以来、ISEPも含めて飯田さんのさまざまな活動に注目し、いくつか関わりを持たせていただいています。今日はこちらに招いていただきまして大変ありがとうございます、誠に光栄です。

さて、今日お話しすることは、今の小林さんのお話にもつながる、そしてこの後の宮台さんのお話にもつながることかと思います。

「誰がどのように決めるのか」という問題、これが問われているんじゃないかという話ですけれども、例えば、今、国会あるいは官邸の前で、かつては2011〜12年にかけて、特に12年には、再稼働反対のデモが盛り上がり、7月29日には20万人集まったと言われています。

そして今回の安保法制をめぐっては、つい先日8月30日に、主催者発表で12万人集まったと。今夜もたくさん集まるのではないかと思われますが、これらのデモの中で問われているのは単に再稼働反対、あるいは安保法制反対ということだけではありません。シュプレヒコールやプラカードのメッセージを見ると、その中には「勝手に決めるな!」「私たちの声も聞け!」あるいは今の安保法制を巡るデモのなかでは「民主主義って何だ!?」というものがあります。

つまり、ある問題に関して誰がどのように決めるべきなのか、どのような決め方がより良いのか、政治学の言葉で言うと「正統性(Legitimacy)」の問題、これが問われているように思います。

しかしながら、そうした問いかけに対して現状の考え方、特に科学技術について常に言われるのは、科学技術の場合には中身は技術的、科学的、専門的な話が多いので「それは専門家に任せるべきだ」ということです。これは昔の話ですが、2000年、ISEPが始まった年の初めに行われた、徳島県吉野川の可動堰をめぐる住民投票でも、当時の建設大臣が「住民投票は民主主義の誤作動である」と発言しました。「可動堰が良いかどうかというのは、技術的に1+1がどこの世界でも2になるように、民主主義で決められないんだ」という意味でした。

安保法制をめぐっては、反対世論が強いことに対して、「国民の理解が不足している」「もっと丁寧な説明を」ということを政治家やマスコミがよく言っています。そう言いながらも、わけのわからない変な内臓みたいなおもちゃを使ってテレビで首相が説明して、余計わけわからなくなったりするんですけれども、こういう時に常に思うのは「理解が不足しているのはどっちだ」「説明が足りないのではなく、中身がおかしいのでしょう」ということです。

こういうことは科学技術についても常に言われてきて、そうした考え方のことを我々の分野ではよく「欠如モデル」と呼んでいます。どういう意味かというと、科学技術をめぐってなにか紛争が起きたりする、対立が起きたりする。例えば市民からの色々な不安が広がったり抵抗が生じたりすると「その理由は無知であるからだ」と処理しようとする考え方です。

市民が、例えば遺伝子組み換え作物に対して、原発に対して反対するのは、「それらの技術について科学的なことが分かってないからである、したがって、その正しい知識を分かりやすく教えてあげて、理解していただければ、その技術に対しての誤解も解け、受容が進む、受け入れが進むであろう」という考え方から、よく「ご理解ください」というセリフが使われたりするわけです。

しかしながら、実際には、さっき言いましたように、理解すべきはむしろどっちかということも多いわけです。さらに言えば、科学技術の問題というのは科学技術の専門的な知識があればそれですべて解けるかといえばそんなことは全然ないわけです。

例えば、科学的技術的な話についても、不確かさというのは必ずあります。なにが起こるかわからない、まだ詳しくわかっていないことがたくさんある。地震でも、原発でもそうです。

さらに言えば、先ほど小林先生のお話の中でもありましたけれども、リスクの分配をめぐる不正義といったようなことも含めて、実は技術の問題というのはさまざまな社会的問題、倫理や価値・人権・権利・正義といったことに関わる問題が含まれています。それは決して、科学的技術的な問題ではないわけです。

その意味では、科学技術の問題というのは実は公共的な問題です。先ほどの小林先生のお話の中にもあったかたちで言うと、世代すらも超えた、トランスジェネレーションな次元まで含めた公共的な問題として考えなければならないということになります。

しかしながらそれと同時に、今日の私の話として、後でまた順番が回ってきたときにも言及したいと思いますが、頭出し的に言っておきたいのは、先ほどの官邸前のデモや、それも含めた3.11以降の社会の動きの中で問われているのは、政府の側、あるいは専門家コミュニティの側での問題の処理の仕方、物事の決め方を変えること、科学技術の民主化、あるいは「専門性の民主化」ということだけではなく、民主主義の側の方もバージョンアップが必要なのだろうということです。我々自身の、市民としてのあり方も含めて変わっていかなければならないと思います。

それは大きく分けて2つのポイントがあるだろうと思います。1つは「市民社会の民主化」で、市民社会自体をもう少し、より民主的にしていかなければいけないだろうということです。

先ほどの小林先生のお話の中での言葉を使えば、臣民的政治文化ではなく、市民的な政治文化をもっと広めていく必要があるだろう。例えば今まさに会場(憲政記念館)の外で行われているようなデモが、もっとふつうにできる社会、デモに誰でも簡単に参加できる社会にしていくこと。これは、この3〜4年間の間にかなり達成できてきたと思います。

そしてさらに、それと同時に大事なのが「対話する文化」です。自分とは異なる考え方、自分が知らないテーマに関しても、学び、ほかの人からの意見を聴き、自分で熟慮し、そしてその意見を他の人に伝え、議論をし、対話をする。そうした試み、営みというのも民主主義の中で非常に根幹的な部分を占めます。長い日本の政治文化の蓄積の中からそれも育ってきたわけですけれど、これもこの4年間、特に3.11以降は原発をめぐって、あるいは安保法制、憲法をめぐっても、いろんなところで対話の試みというものが広がっています。

例えば安保法制を巡っては、私の知り合いもやっていますけれども「憲法カフェ」ということを若い弁護士さんたちがやっていたり、あるいは「怒れる女子会」ということで、女性の方々が、主婦の方たちも含めてあちこちで勉強会や対話の集まりをやっていたりする。その中で、テーマに関してのさまざまな学習をする。自らやったり、また議論をお互い深めたりする。違う考え方の人の考え方について、お互い理解しあったりする。そういうことが広がっています。

東日本大震災の被災地でも、復興をめぐって、地域で共和主義的なというか、自分たちで自己決定しながら自治でまちを再興していく、新たなエネルギーも生み出していこうという動きも広がっているわけですね。その基盤になるのが「対話する文化」であり、そしてその対話というのは何か特別な場である必要は必ずしもない。

例えば、政治学者でマンスブリッジという人がいます。その人が提案している概念で「熟議システム」というのがあります。システムというと何か固いものがイメージされますが、もっとゆるやかなもので、例えば先ほどの小林先生のお話の中でも出てきた「熟議」という営みというのは、何かかしこまった場でかしこまった顔をしてするものばかりではなくて、例えば日常の家族の団らん、友達との語り合い、近所の人たちとの立ち話、そういうことも含めて、さまざまな対話の営みが人の中に、社会に中にたくさんある。

それらがゆるやかにつながっていき、例えば選挙での投票であったり、あるいは何か直接的に意思を問われた時の意見表明であったり、市場での商品の選択、エネルギー源の選択、そういう機会における個々の判断に反映されていく。農業に例えれば作物に対する土壌や生態系全体の豊かさみたいなものを育んでいくような、そういう営みとしての対話の文化というものが結構大事なのではないか、これを今後どう育てていくかということが、一つ大きいのではないかと考えています。

あともう1つ大事なのは、市民社会の方も専門化が必要だということです。さっき「科学技術の民主化」「専門性の民主化」と言いましたけれども、それが進むためには、逆に我々市民社会の側もある程度の専門性を持つ必要があります。

例えば、ずっと反原発に取り組んできた高木仁三郎さんがかつて論文でおっしゃっていた言葉で「専門的批判の組織化」というのがあります。それを彼自身は、原子力資料情報室というかたちでやってきたわけです。またエネルギー問題ではISEPがこの15年間やってきたわけですが、こうした市民社会の側に根ざした専門的な組織、それに基づいた批判、そして新しいビジョンの提示、これを市民社会がどう育て、広げていくかということが、今後大きな課題かなと思います。

また細かい話などは後ほど話させていただきます。どうもありがとうございました。

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