3.11後の日本のエネルギー×デモクラシー

佐々木 ありがとうございます。「民主主義のバージョンアップ」というお話でした。またその「民主主義のバージョンアップ」を支えるための基盤となるのが、対話の文化ということでした。ここまで予想以上にみなさん時間内で話を終えられているので(笑)、後ほどまた時間がありましたらさらに詳しくお話を伺いたいと思います。

続きまして、宮台さんからお話いただきたいと思います。よろしくお願いします。

15thanniversary_3共同体自治に向かう過渡期

宮台 僕は、いまお二人のお話をうかがいながら、話の構成を組み立てておりました。お二方の論点につながる話を幾つかできるだろうと思います。最初に、社会学あるいは社会科学の全般において、過去20年間、巨大システムへの依存は危ないという議論が、いくつかの側面から語られてきていることを、紹介させていただきます。大きく3つに分けられると思います。

一つはリスクマネジメントの観点です。レベッカ・ソルニットが東日本大震災の直前に書いた『災害ユートピア』(2009年)が震災以降、日本でも読まれるようになったので、御存じの方も多いかもしれません。巨大システムに依存しきってしまうと、人々は共同体的な相互扶助の習慣や実績を失ってしまいます。そこで巨大システムが壊れてしまうと、依存する度合いが高かった所ほど、共同体が元々持つ底力を使うことが出来ずに、人々が路頭に迷います。逆に、依存がほどほどで、共同体がポテンシャリティを維持していれば、巨大システムが壊れたとき「災害ユートピア」というべき相互扶助の花が開き、人々が内から湧きあがる力でお互いを支え合うということです。

巨大システムへの依存を批判する第2の観点は、ユルゲン・ハーバーマスから提起されているものです。彼はシステムと生活世界という言葉を使います。平たく言えば、「役割とマニュアル」で動いているのがシステムで、匿名的で、人の入れ替えがきくので、流動性が高い。生活世界は、ソルニットの「災害ユートピア」として具現するような、僕たちが元々営んできた「善意と自発性」に基づく、共同体感覚に満ちた営みということになります。

近代化とは、マックス・ウェーバーによれば計算可能性を増すような手続主義の貫徹への動きです。生活世界を営む我々が便利になるためにシステムを使うようになることです。我々が主人公で、システムが道具です。システムは計算可能性が高いので、管理がしやすく、投資がしやすいので、どんどん肥大していく。そして気がついてみると、主/従が逆転し、むしろシステムが主人公で、我々はシステムの作動部品、いわばリレースイッチのようなものに成り下がっている。これは疎外論的貫徹に立つ議論の典型です。

巨大システム依存を批判する第3の観点が、政治の暴走への危惧。グローバル化が進み、中間層が分解し、貧困化と格差化が進むと、民主制の健全な作動を支えていたソーシャルキャピタル−−対人ネットワーク−−が崩壊し、分断され孤立した個人が不安と鬱屈にかられ、感情の政治に釣られます。それを当て込んで政治が広告代理店的な動員戦略を駆使して人々を感情的に釣るので、政治は攻撃的で排外主義的になります。9.11以降のアメリカの暴走にも見られたし、小泉政権の際に政権に近かったコンサルが名指したB層–社会的弱者なのに自覚がない低IQ層–に訴求する昨今の自民党政治もそうです。

こうした、民主制の健全な作動を支えるソーシャルキャピタルの崩壊に抗うのが、先ほどお話しに出てきた熟議で、ジェームズ・フィシュキンが提唱したものです。彼の熟議論をベースにしながら、単に話し合うだけでは極端なことを言う声だけデカイ者が座を支配しがちだから、こうした集団的極端化を回避するための条件を付すのがキャス・サンスティーンです。集団的極端化を招く要因は、参加者の匿名性や、主題に関わる不完全情報や、座回しの拙劣さなので、これを回避するように慎重に運営されるファシリテーター付きの熟議が提唱されます。

まとめると、巨大システムへの依存は、第1に「リスクマネジメント上、あぶない」し、第2に「疎外という観点から、せつない」し、第3に「政治の暴走という観点から、あぶない」ということです。こうしたことは、しかし、3.11以降、とりわけ第2次安倍内閣以降、多くの方々が既に弁えておられるのではないでしょうか。その意味で、僕自身は、我々は希望に満ちた過渡期にいるのだと思います。多くの人は第2次安倍内閣を悲劇的に捉えすぎています。僕が安倍内閣を支持しているとかアベノミクスは素晴らしいということを言っているのではありません。

考えてみてください。もし第2次安倍内閣がなかったら、「憲法が、統治権力を制約するルールだ」ということをこれだけの日本国民がこの時期に弁えられたでしょうか。間違いなく弁えられなかった。憲法学者たちが今年2015年の7月に国会に呼ばれ、自民党が呼んだ長谷部恭男氏も含めて「憲法違反だ」と陳述しました。これが世論の流れが変わる大きなきっかけになり、学生団体SEALDsの動きもとても盛り上がりましたが、これも第2次安倍内閣があったればこそ。こうした流れの中で我々は「民主主義ってどういうものなのか?」ということを考え、議論するようになりました。

例えば、立憲政治とはどういうものなのか。「任せてブーたれる」政治から、「引き受けて考える」政治にシフトしないといかに議会が暴走するか。地方議会に「ローカル」という字をあてるべきなのか、それとも「ちほう」…あえて言いませんが(笑)。こうしたことがさんざん話題になった挙げ句、「こんな輩たちに任せていいのか」という気分が盛り上がって、国民過半数が反対する再稼働や辺野古や安保法制を恥じ晒しな政治家たちがどんどん決めていく状況に対するSEALDsの大規模な動きに繋がった。ニーチェではありませんが、悲劇の共有がなければ、人々は新しいステージに進むことができないという意味では、我々はやっと新しいステージに進みつつあるのかもしれません。

最後に、飯田さんと僕は、3.11の比較的直後の2011年夏に『原発社会からの離脱—自然エネルギーと共同体自治にむけて』という共著の書物を出しました。この本では、「任せてブーたれる」政治から「引き受けて考える」政治に僕たちがシフトするときの、一番分かりやすい手がかりが、「食の共同体自治」と「エネルギーの共同体自治」であることを紹介しました。日本の外側はもとより、飯田さんたちの試みを含めて日本の内側にすでにさまざまな実績があり、それを手がかりにすれば、僕たちが今から始めることができるということを述べました。

この「共同体自治」ということについて、『アメリカのデモクラシー』という本を書いたアレクシ・ド・トクヴィルというフランス人が、実は19世紀の前半から半ばにかけてすでに言っていたということを確認します。フランス人トクヴィルは、もともとデモクラシーに対して懐疑的で、フランス的な寡頭政治、つまりモンテスキューが言うような、偉い人たちが互いに牽制し合って政治をすればいいといった観点を支持していました。それがアメリカに行って本当のデモクラシーがあることを発見して衝撃を受けました。そこで彼は2つのことを発見したのでした。

一つは、本当のデモクラシーは規模が小さいからできるということ。つまり、えらい人たちに任せないで自分たちで引き受けられる範囲だから、本当のデモクラシーを実現できるということを見出した。「これくらいのまちの規模であれば自分たちでできるぞ」という構えを「タウンシップ」と彼は呼んでいます。もう一つ、このタウンシップのベースに、信仰共同体、つまり超越に関するプラットフォームを共有するという、重要なポイントがあることも言っています。超越の話は今日は話がずれるのでスキップさせていただきますけれども、規模が小さい、顔が見えるということは、非常に重要です。

巷には「顔が見えない範囲」を持ち出して「敵だ!」「味方だ!」と吠えるような、僕が「2ちゃん系ウヨ豚」と呼んで来た人たちがいます。ところが19世紀に初頭に遡れば、そういう輩はキチガイ扱いでした。19世紀の半ばになるまでは、見ず知らずの人間を思考停止的に「我々」だと呼ぶような作法は、クリスチャンやムスリムの信仰共同体を除けば、世界中一切なかったからです。そう、またしても信仰です。そもそもは17世紀半ばに、30年戦争という宗教戦争の手打ちで、ウェストファリア条約が結ばれて、「主権」すなわち「世俗的な最高性」という概念が出来たことが伏線でした。

しかし「主権」が生まれたとはいえ、この頃はsovereignが「諸侯」を指し、nationつまり「見ず知らずの我々からなる国民共同体」はなかった。手打ちの内容はというと、本当は世俗より超越が大切だし、社会より宗教が大きいけど、それを言うと殺し合っちゃうから、超越を世俗が選べる、宗教を社会が選べるという話に、嘘だけれどしちゃいましょうということ。そうは言っても選ぶの所詮は諸侯でしたが、二百年後、フランス革命後の混乱で、諸侯の弱体化で自分たちが攻め滅ぼされるのではないかと危惧した人々が、武器を持って立ち上がるところからnationつまり「国民国家」か出来あがりました。

しかし20世紀になって、手打ちユニットである「主権国家」が、最初は数百万人から最大で一千万人という規模のユニットだったのが、何千万とか何億規模になって、我々は完全に「顔の見えない範囲」で主権国家を民主主義で営むようになりました。そこで不可避的に採用されるのが議会制民主主義です。議会制民主主義といっても「顔の見える範囲」で営むのと「顔の見えない範囲」で営むのとはまったく違います。その違いがどんな弊害に繋がるのかが長い間にわたって覆い隠されてきました。トマ・ピケティが言うように、第二次世界大戦後20年余りの間、先進各国で経済成長が続いて中間層が膨らんでソーシャルキャピタルが個人を包摂したので、分断されて孤立した個人が不安と鬱屈ゆえに「感情の政治」に動員される大衆疎外状況が、緩和したことがあります。

ところが、グローバル化という名の資本移動自由化のせいで、「感情の政治」に踊らないで冷静な国民を支えてきた分厚い中間層が分解し、戦間期のように、分断されて孤立した個人が不安と鬱屈ゆえに「感情の政治」に動員される大衆疎外状況に見舞われる事態になりました。付和雷同的に煽られる人たちがどんどん増えているのです。だからこそ、「このままでは民主政がやばい」ということで、以前にも増して「任せてブーたれる」のはやめ、小規模なユニットからでも自分たちで「引き受けて考える」ことを始める動きも生まれています。

そういう「できることは自分たちでやる」という人間たちからなる複数のユニットが互いにコンヴィーヴ(共生)すること、すなわち、小林先生がおっしゃったような共和的な共生メカニズムとして、ミクロからマクロを構想することが、大事だという潮流に確実になってきているんです。日本でもその流れが今まさに進行中で、「任せてブーたれる」政治の中で、濡れ手で粟の利権を享受し、感情任せでブーたれてきた人たちの、いわば最後のあがきが展開している、それが安倍政権であり、ウヨ豚だと見ています。

<ページ 4:コミュニティでの対話と熟議

ページ: 1 2 3 4 5 6