3.11後の日本のエネルギー×デモクラシー

アソシエーショナルな協働性

宮台 小林先生がおっしゃっていた、道のりはそんなに簡単ではないという部分について申し上げます。僕は民主党の福山哲郎さんや枝野幸男さんと15〜20年位の付き合いがあり、この二人は、任せてブーたれる政治から引き受けて考える政治へという志向を強く思ってらっしゃる方々です。しかし2009年に民主党政権が誕生すると、さっそく週刊誌や新聞が「民主党政権に任せられるか?」という議論を始めたので、お二人と「うわ~、これはないわ〜」という話をした記憶があります。(笑)

佐々木先生がおっしゃった規模の問題について言いますと、20世紀の半ばに、ポール・ラザースフェルドという、元左翼から右翼に転じた有名な社会心理学者がいて、米国大統領選挙におけるマスコミ報道と人々の投票行動に関する『ピープルズ・チョイス』という本を書き、みなさんご存じのオピニオンリーダーという概念をつくりました。人々は小集団に帰属し、小集団の仲間から一目置かれる見識ある人=オピニオンリーダーが言うことに触れる機会が不可欠だ、とするものです。要は、個人が剥き出しで社会に晒されてはいけない、規模の小さいミニ社会に包摂されなければならない、というのです。

彼の議論は統計的分析をもとにしたもので、簡単に紹介するとこんな感じです。マスメディアの情報は人々を直撃するのではなく、人々が所属するスモールグループ(小集団)のオピニオンリーダーにまず咀嚼され、それをフォロワー層が受け取ることで妥当な解釈がシェアされ、民主政が健全に機能するのだと。中間層が分厚くなりつつあった当時を前提とした議論ですが、似たことを、ジョセフ・クラッパーというマスコミ効果研究者が言っています。彼も統計的分析を通じて以下のようなことを言うのです。

世の中にはメディア悪影響論が隆盛で、暴力的・性的コンテンツが議論になりがちだ。皆さんはこれを政治的扇動にまで拡張して理解しても構いません。悪影響としてコンテンツを問題にする人が多いが、それは間違いで、一人きりでメディアに接触していることや、接触した後に対人ネットワークの中でコミュニケーション機会が奪われていることこそ、悪影響の最大原因なのだ、とクラッパーは言うのです。現に、親しい人たちとテレビを見た人、見た後に親しい人たちと会話する機会があった人は、テレビの内容に直撃されず、妥当な受け取り方をすることが、見事に実証されているではないかと。

彼らの議論は、共同体自治的スモールユニットの、共和としてマクロを構想するのであれば、アメリカン・デモクラシーがうまくいくだろう、という話として共通しています。トクヴィルイズムという元祖アソシエーショニズムの妥当性を、あらためて再確認する、その意味で伝統的な内容なのですね。そのことを踏まえればこそ、現実のマクロで、いま何が起こっているのかが問題です。小林正弥先生を前にして恐縮なのですが、マイケル・サンデルの『アメリカのデモクラシー』という本を5年前にゼミで英語でみました。この本はこれから紹介するような議論をしています。

アメリカのリバタリアニズムのルーツにタウンシップがあった。それはコミューナルなベースだった。ところが産業化や都市化でコミューナルなベースが崩れ、タウンシップの相互扶助がうまくいかなくなった。そこでマクロな政治的再配分が要求され、リベラリズムが出てきた。でもリベラリズムはタウンシップの本義に反する。実際アメリカでリベラリズムというと、国家的再配分主義という否定的ニュアンスです。そこで本来のアメリカに戻るべきだとバックラッシュが生じ、リバタリアニズムが出てきた。でもかつてのコミューナルなベースがないから、市場原理主義者のようなダメな人たちが出てくる。それが現在の絶望的なアメリカなのだと。僕の弟子が先日話を聞きに行ったのですが、サンデルは白熱教室の時は明るいけど、根は暗いそうです。(笑)

それはともかく、僕が申し上げたいのは、コミューナルなベースとか、国家と個人の間にある中間的な共同体というと、つい昔ながらの共同体を思い出しがちですが、さきほどからアソシエーショナルなものが話題になっているように、無自覚で思考停止的な共同体に埋め込まれるのでなく、民主制を健全に回して政治の暴走を防ぐためにどんな機能が必要なのかを深く分析し、剥き出しになった個人が「感情の劣化」を被らないようなプラットフォームとして、規模の小さなミニ社会を再帰的・自覚的に構成しなければいけないということです。フィシュキンが言う熟議の目的も、「引き受けて考える」構えの醸成や、声のデカイ極端者が場を支配できないような完全情報化や非匿名化に加え、「新しい我々」を構成する点にあります。

老人なんて頑固だと思ったら、意外に柔軟じゃないかと。在日や中国人は反日的だと思ったら、立派な意見を言う人もいるものだと。浅ましい日本人より、立派な外国人の方が話し合って稔りがあるなと。すると「今までの我々感覚って違うじゃん、本当の我々は別じゃん」と我々が再構成される。今まで縦割化して話す機会もなかった人たちと話す機会を持てばこのような「経験を通じた成長」ができる。つまりデューイに代表されるプラグマティズムの民主主義観が熟議論に流れ込んでいます。トクヴィルイズム、プラグマティズム、コミュニタリアニズム、熟議主義は、互いに関連しながら同じものを指し示します。小林先生や平川先生も話題にしておられる、長いものに巻かれる的共同体ではない、境界線の絶えざる引き直しを伴うアソシエーショナルなコミュニティです。

もはやお上に任せられないというのは、複雑な社会システムを生きる我々の、国境を越えた共通感覚だと思います。けれども、サンデルが危惧していたように、我々の手元にコミューナルなものがなければ、お上に任せられないとなったときに直ちにホリエモン的な市場原理主義がせせり出して来ることになります。現にそうなっていますよね。これは、格差化と貧困化、個人の分断による孤立化、不安と鬱屈による「感情の政治」、攻撃性と排外性の上昇などを招き寄せる、あからさまに間違った選択です。これを回避するための唯一の道が、境界線の絶えざる引き直しを伴うアソシエーショナルなコミュニティと、コミュニティ同士のコンヴィーヴです。それを強調して僕の発言を終わります。

佐々木 さきほどうかがったところだと、ISEPが設立会合をもたれたのは今日からちょうど15年前の2000年9月11日だということです。

9月11日は冒頭の小林さんのお話にもあったように、世界同時多発テロの日付ですが、それ以後の世界はまさに1990年代から予言されていた「文明の衝突」が実現してしまうという状況にありました。その後、ご記憶のように、いやいや「文明の衝突」じゃなくて「文明の対話」であるべきだというハタミ大統領のような人たちが出てきて、衝突か対話かという議論になったわけです。今日のセッションの結論も、2015年9月11日、新しい可能性は、平川さんのおっしゃるような対話、非常に古い言葉ですがまさに「対話」にあるのではないかということでした。

そしてこの文明的対話をずっと媒介し、促進してきたISEPが、今では日本中の地域エネルギーの取り組みを繋げて、新しいデモクラシーの形を創り上げてきたのだ、ということを再確認して、このセッションを終わりたいと思います。3人の先生方どうもありがとうございました。

(編集/古屋将太)

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