核廃棄物最終処分場「科学的特性マップ」という失敗への道

小泉純一郎元首相が「日本では核のごみの最終処分場は見つからない」とした問題提起に対する「答え」として「科学的特性マップ」が公表された。これは、当初のアプローチからして失敗への道が確定している。核のゴミ問題は、極めて難しい問題であり、政治社会的な問題であることを共通の理解として、丁寧にコンセンサスを積み上げることが必要なのだ。

小泉元首相への「回答」

経済産業省は、7月28日、原発から出る高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分場への適性度合いを全国地図で示す「科学的特性マップ」を公表した[1]。これを見ると、日本の基礎自治体1750のうちおよそ900、陸地の約3割が「有望」となっている。

[1] 経済産業省資源エネルギー庁 科学的特性マップ公表用サイト

さっそく各方面で物議を醸しているものの、経産省は「当初の目的」は果たしたと思える。「当初の目的」とは、小泉純一郎元首相が「日本では核のごみの最終処分場は見つからない」とした問題提起に対する「答え」である。

しかしながら、小泉元首相に答えたのはよいが、そもそも問題自体の回答にはなっていないことが致命的だ。この「科学的特性マップ」は、最初から行き詰まっており、失敗が確定しているのだ。

迷走する「言葉遊び」

「科学的特性マップ」とは何か。その前に、ここに至る経緯を見ると、ほとんどジョークだ。曰く、『「科学的有望地」は誤解や不安を招くから「マップ」と言いたい』、曰く、『冷静な議論ができなくなるから「候補地」「適性」は禁句』。こうして用語一つで迷走を繰り返した挙げ句に、「好ましい特性が確認できる可能性が相対的に高い科学的特性マップ」と意味不明の表現となり、原発推進の旗幟(きし)を鮮明にするサンケイ新聞からさえ「言葉遊び」「意味不明」と批判されている[2]

[2] サンケイ新聞2017年3月11日「【原発最前線】「言葉遊び」ばかりのごみ最終処分場議論…「好ましい特性が確認できる可能性が相対的に高い」って分かりますか?」(社会部 蕎麦谷里志記者)

この迷走する「言葉遊び」の経緯を見るだけでも、すでに袋小路に陥っていることが伺える。それも当然だ。この核廃棄物最終処分場「科学的特性マップ」のアプローチは、最初から失敗が確定しているのだ。こんな「科学的特性マップ」に注目すること自体に何の意味もない。理由を説明しよう。

失敗の歴史を繰り返す

あらためて歴史を振り返ると、「失敗のデジャブ」を見るようだ。今、国(経済産業省)が中心となって進めている「科学的有望地」の提示は、1990年代まで旧動燃(現:核燃料サイクル機構)が行ってきて頓挫した「研究開発アプローチ」の失敗に舞い戻っている。

当時は、「旧動燃の失敗」を踏まえて、2000年に事業実施主体として原子力発電環境整備機構(NUMO)が設立され、2002年から処分地選定の公募が始まった。科学的に適地をスクリーンニングするのではなく、手を挙げたところが適地かどうかを判断するなら候補地が見つかるのではと考えたわけだ。

しかしこの公募方式も、やはり行き詰まった。NUMOの公募では、文献・概要調査だけで6年間でおよそ45億円もの交付金が配られる。後で否決しても返さなくても良い。その「アメ」で釣った結果、さまざまな地名が取りざたされたが、2007年1月、高知県東洋町長が町議会の同意も得ずに候補地の調査に手を挙げ、町を二分する騒動の挙げ句、町長が町民に信を問うとして辞任し、その出直し選挙では大差で敗れた。その後は、他の地域もすっかり手を挙げる動きはなりを潜めた。

こうしてNUMOの公募方式でも膠着状態に陥ったまま、2011年3月11日に東日本大震災と福島第一原発事故が起き、原発問題やエネルギーは国民の大きな関心事となった。そこに登場したのが小泉純一郎元首相である。福島第一原発事故を目の当たりにして「自分は欺されていた」と講演では口にしていたが、メディアのインタビューを受けない小泉元首相の主張が脚光を浴びたのは、山田孝男毎日新聞特別編集委員が2013年8月26日の風知草というコラムに書いた『小泉純一郎の「原発ゼロ」』という記事だった。

三菱重工業、東芝、日立製作所の原発担当幹部とゼネコン幹部、計5人が同行して、フィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」と自然エネルギーが進むドイツを視察し、小泉氏の「(使用済み核燃料の管理に)10万年だよ。300年後に考えるっていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ」という言葉を紹介している。

これで小泉元首相の「原発ゼロ」発言が一気に世間の耳目を集め、人気が沸騰した。しかも、翌2014年2月には東京都知事選挙も控えているというタイミングだった。筆者の見立てでは、この小泉人気に危機感を覚えつつも反発した安倍官邸と経産省の中枢が「核のゴミ」の問題解決に乗り出したと推察している。

2013年12月6日の総合資源エネルギー調査会基本政策分科会に提示された資料の中に、「国が前面に立って、高レベル放射性廃棄物の最終処分に向けた取組を推進」と明記されている[3]。これこそ、小泉元首相に対抗して官邸に居る経産官僚出身の今井尚哉政務秘書官が切った切り札、「国が前面に出る」なのである。

[3] 総合資源エネルギー調査会基本政策分科会「エネルギー基本計画に対する意見の骨子(案)」2013年12月6日

しかしこれは、旧動燃の失敗の歴史を繰り返すもので、「切り札」というよりも「墓穴」であった。この時に失敗へのレールは引かれたのだ。

「国が前面に出る」と失敗する

この国では「国が前面に出る」と、残念ながらほぼ例外なく失敗する。

福島第一原発事故の汚染水問題でも、安倍首相は「汚染水問題は東電任せにせず、責任をもって国が前面に」と述べ(2013年8月7日の原子力災害対策本部など)、それを踏まえて、東京オリンピックの招致演説(2013年9月7日、ブエノスアイレス)で安倍首相は「(汚染水は)完全にブロック」「アンダーコントロール」と発言している。ところがその後、国が補助金を出して建設した凍土壁は機能せず、汚染水問題は何ら改善していない。そもそも、国は補助金を出しただけであり、実態はずっと東電任せのまま、これまで「国が前面に出た」ことは一度たりともない。

「国が前面に出る」と必ず失敗する原因は、そうした「大言壮語」をする者が問題を過小評価する一方で自己を過大視しており、「大言壮語」の反面で、実態は「お粗末なお役所仕事」という情けない組合せである。「国が前面に出る」と聞くと、何やら全ての国家組織が一斉に動くように聞こえるが、それはスローガンだけで中実は虚ろだ。実態は、縦割りのお役所仕事に降りてゆき、せいぜい担当課のレベルの仕事に矮小化され、その担当課も責任を負いきれずに逃げ腰になるため、「国が前面」という言葉とは大きく乖離してゆく。

ちょうど当時は、民主党前政権を蹴散らして安倍政権が登場し自信満々で船出して一年目、国民の期待を裏切ったイメージを与えられた民主党に対する国民の深い失望への反動も加わって、高い支持率に支えられて順風満帆の状況だった。とりわけ今井尚哉政務秘書官は、第一次安倍政権で初めて秘書官に任命され、安倍首相とともに政権崩壊とその後の野党への下野の悔しさを共有し、それをバネに雌伏してきた固い結束で結ばれている。安倍首相からの全幅の信頼を権力の源泉にして、今井氏は、さぞかし万能感に酔いしれていたことだろう。汚染水問題でも小泉氏が提起した核のゴミ問題でも、その万能感に背中を押されて問題を軽視し、「国が前面に出る」と安倍首相に発言させたのではないか。

ともあれ、「国が前面に出る」と発言した安倍首相もそのシナリオを書いたと思われる今井氏も、今や自分の責任などどこ吹く風の風情である。こうしたトップが「ケツを拭かない」無責任さも、「国が前面に出る」と失敗する一因を構成している。

「失敗の本質」を読み解く

「国が前面に出て失敗する構図」とは別に、旧動燃にしてもNUMOにしても経産省の「科学的特性マップ」にしても、いずれも本質的に失敗は約束されている。なぜか。

第1に、進める側が信頼されていないことだ。多くの国民は「国」や電力会社を信頼していない。3.11後はなおさらだ。信頼されていない人たちが進める場や手続きで、合意どころか対話すらまともに出来るはずがない。

第2に、「同床異夢」どころか「異床異夢」とも言うべき、価値観や問題の見え方があまりにかけ離れている。原発容認派の専門家や官僚は、核廃棄物は安全に処分が可能だと考え、「どこに捨てるか」だけが課題だと考えている。これは、旧動燃もNUMOも今の経産省アプローチでも一貫している。

他方、原発に批判的な専門家も小泉元首相も一般の人々も、問題をもっと幅広く捉えている。10万年もの安全性が果たして可能なのか、自分たちの世代が10万年先を決めて良いのか、哲学も含めて総動員して考え抜くことが必要と考えるのだ。小泉元首相が提起した「10万年も管理が必要な核のゴミ」という深遠な問いに対して、「前面に出た国」の方は言葉遊びに陥っている対照的な状況に、この差異が見事に現れている。

第3に、対話のテーブルに付く前提条件が整っていないことだ。一方で原発再稼働を強行に推し進めて核のゴミを生み出しながら、他方で「核のゴミには皆さんにも責任の一端があります」と言いながら合意を迫るという国や事業者のアプローチは、「暴力を振るいながら俺のカネで飯を食わせてやっている」と迫るドメスティック・バイオレンス(DV)の構図と変わらない。

出口を探る

ここまで書くと、「じゃあ何か代案はあるのか」という声が聞こえてきそうだ。代案は、もちろんある。

第1に、「問題の本質」を見極めることだ。核のゴミ問題は、極めて難しい問題であり、一朝一夕の解はない。万能感に酔いしれた官僚がヤンキーのノリで解決できるものでは到底ない。技術的問題以上に、政治社会的な問題であることを共通の理解として、丁寧にコンセンサスを積み上げることが必要なのだ。

第2に、対話のテーブルに付く前提条件が整えることだ。真っ先に必要なことは、原発再稼働の圧力を止め、「原発モラトリアム」(合意までは全原発の停止)をすることだ。こう書くと原発容認派から「原発を止めるために言っているだけだろう」との批判が飛んでくるだろうが、けっして「為にする議論」ではない。真に核のゴミ問題の「出口」に糸口を付けるなら、絶対に必要な条件だと返したい。それが無ければ、DVと同じ構図だと、理由は述べたとおりだ。「原発モラトリアム」による電力会社の損失は国が補填すれば良い。交付国債で負担するなど、いくらでも方法はある。

第3に、日本学術会議の提言に戻ることだ[4]。核のゴミ(=使用済み核燃料)の総量規制と暫定保管を基本的な枠組みとして、社会全体の広範な合意を紡ぎ上げることが必要だろう。なお、日本学術会議はさまざまな議論の末に「総量管理」としているが、これでは抜け穴が透けて見えている。ここは厳密に「総量規制」でなければならない。また、暫定保管とは鋼鉄製の乾式キャスクによる数十年から数百年もの「暫定」保管を意味する。福島第一原発事故時に4号機のプールが危機的であったように、現状の水プール保管方式はコストがかさむ上に、停電時など異常時のリスクが大きい。それに対して乾式キャスクは自然空冷であり、圧倒的にリスクが小さく、長期から超長期の保管に適している。それを活用した長期〜超長期の「暫定」保管の間に、最終的な「処分」に関して、社会的な合意形成への熟議を図るという意味がある。なお、当然ながら「どこに暫定保管するのだ」という疑問もあるだろう。原則は核のゴミを動かすこともリスクだから、原発サイト内が基本となる。ただし、これを巡ってもさまざまな選択肢を議論し合意することも重要だ。

[4] 日本学術会議「回答 高レベル放射性廃棄物の処分について」平成24年(2012年)9月11日

第4に、コンセンサスの条件を整えることが必要だ。「原発モラトリアム」はすでに述べたが、加えて、場や進行役が信頼される主体から成ることが不可欠だ。かつて成田空港問題円卓会議で隅谷三喜男氏を委員長に宇沢弘文氏も参加されるなど、そうした誰から見ても納得できる体制を選ぶか、さもなくば、座長も事務局も原発容認・批判の同数で構成して、議論し協力しながら運営することで、中立性を維持することも考えられる。もちろん、そうした場は、オープンで透明な運営を必須とし、幅広い主体の参加を通して丁寧な合意の積上げを目指すことだ。

原発に手を染めた日本人が背負った「業火」

核のゴミは本当にやっかいな問題だ。すでに純国産でクリーンで無限かつ無尽蔵な風力発電や太陽光発電など再生可能エネルギーが、急速にエネルギーの主力になりつつある中で、こんなやっかいな核のゴミを生み出す原発に、これ以上、固執する必要はない。

ただし、すでに生み出した核のゴミや合意次第ではもう少し生み出してしまう核のゴミについては、私たちの世代で責任を取る必要がある。もちろん、時間的に責任は取り切れないが、出口が見える可能性のある最善の方向性を整えておくことがせめてもの責任の取り方なのではないか。

「暫定」とはいえ場合によっては数百年もの長い間の「保管」、さらには10万年もの長い間の管理を必要とする「処分」と、私たち日本人は、何らかのかたちで核のゴミを抱え続けなければならない。これは、福島の地が背負った傷跡ともに、原発に手を染めた日本人が背負い続けていかねばならない「業火」なのである。

iRONNA「有望地マップは「ヤンキーのノリ」これで核のごみは再び出口を失った(2017年8月11日)」より改稿