共有経済へのイノベーション(その2):総有の解体と抵抗の近代史

共有経済の基本となる共有概念には、共有対象が分割できず共有主体も一体の「総有」から、個人の私有を前提に持分化する「共有」まで、広い領域がある。今回は、入会林野や山河・海などに関する、最も一体的な「総有」について、歴史的に分析してみたい。

私有と総有 – ローマ法とゲルマン法

フランスでは、川で釣りをしようとすると、多くの川が個人の私的所有のため、入漁権だけでなく、川の所有者から「河川立入権」を購入しなければならないと、内山節氏がある箇所で指摘している。一般に、南欧諸国では、ローマ法圏として私的所有権の絶対性が貫徹している。これに対して、北欧諸国では、ローマ法的な私的所有権の確立は前提としつつも、他方で伝統的なゲルマン法的な「総有」の原理が生きており、個人所有の森林への散歩やキャンプなどのアクセス権は、所有権の使用を侵害しない限り排除しないこととなっている。北欧では、森は多角的に利用されてきた歴史がある。林業、トナカイ放牧、採取、レクリエーションの場である森は、人々の共通資源=コモンズであったし、森の大部分が小規模経営の農家の私有地である現在でもそうだという。

ゲルマン法的な総有の原理とは、森林や河川などの自然は個人の持分権や処分権があって分割できるものでなく、住民全体の意思に拘束される共同所有であるというコンセプトだ。その背景には、大地と自然に対する深い敬意がある。明治維新に近い1864年、イギリスでは「ウィンブルドン紛争」が起こった。地主が住民を集めて、中世以来のウィンブルドン・コモンの三分の一を売却し、そのお金で残りを囲い込んで公園にすると言い出した。住民はこれに反対し、ウィンブルドン・コモン委員会を作って裁判に訴えた。その結果、今まで通り、囲いのないコモンズとして維持し、住民の選挙による5名と政府任命の3名による管理委員会を設置し、それに必要な税金を住民から徴収することにした。住民の心は、ウィンブルドンの大地を自然のままに保全することにあった。2年後に「1866年首都圏コモンズ法」ができ、イギリス全土のコモンズがオープンスペースとして近代的な公園スペースになった。これは、ゲルマン的総有論理のイギリス的近代化といっていいだろう。ちなみにウィンブルドン・テニス大会は、こうした背景の上でウィンブルドン・コモンの一角で行われている。

総有から私有へ – 日本の近代化

さて同じ頃、日本では明治維新(1868年)が起こり、それまで総有だった入会地や海などが私有の論理と法理に巻き込まれていく。明治政府は、ローマ法的な私的所有権の絶対性を取り入れ、地租改正も民法(物権や債権などのコンセプト)も同じ論理と法理で推進していった。

この点について大正から昭和初頭にかけて、初めて研究したのが、法制史家の中田薫氏だ。中田氏は、徳川時代からの「村」は、擬制的・形式的なものではなく現実の村民の総体というリアルなもの(総合的実在人)であり、単に法律上の利益や権利を共にする多人数の結合に止まらず、各村民から独立し権利義務の主体である単一体で、各村人の人格はその単一体の中に実在しているとする。そして村の権利義務は村民の共同負担であり、村の出入りは村民の共同訴訟であり、村の土地は村民の共同利用であり、ゲルマン法系の村に最も近似している法人で、村の入会権は総有(Gesamteigentum)と規定した。

そしてこうした「村」は、明治22年(1889年)に施行された町村制により、ゲルマン法型の実在的総合人から、単なる行政村としてローマ法的擬制人に改造されていくとした。また村だけでなく、総有原理の下で民衆による自主管理が行われていた日本の山河や海も、明治政府により、国有等の公有と私有に解体されていく。しかしそこには人々の激しい抵抗があった。その経緯は以下の通りである。

第一は、明治6年(1873年)から始まる地租改正と林野の官民有区分事業だ。明治政府は、地租改正により私有権確立の一歩を記し、その下で、明確な利用の確証がない林野を官有地(後の国有林)に編入していく。その結果明治21年(1888年)には台帳に記載された林野面積の過半となる770万町歩(一町歩は約9,900㎡)の林野が官有化(国有化)された。

第二に、明治4年の廃藩置県の延長線上で、大日本帝國憲法が発布された明治22年(1889年)に町村制が施行され、入会林野を形式的な行政単位である町村の一部としての区(財産区)の財産としようとした。しかし農民の激しい抵抗にあい、従来通りの大字・部落有である総有の林野は認めざるをえなかった。また農民や漁民は「水利組合」や「漁業組合」という「総合的実在人」的団体を母体に「総有」の水利権や漁業権を権利化していった。

第三に、日清日露戦争を経た明治43年(1910年)から、部落有林野統一事業が開始され、政府は、部落有林野を行政区の市町村有林野に転換し、造林をすすめようとした。農民は激しく抵抗し統一事業は難航を極めた。政府は大正8年(1919年)に、住民の入会権を認めるという条件付き統一を認めるに至り、戦時体制直前に当たる昭和15年(1939年)の部落有統一事業終了時までに、約200万町歩もの入会原野が市町村有林になった。

さて最後が戦後で、高度経済成長期である昭和41年(1966年)にいわゆる「入会林野近代化法」による入会林野整備事業が始まった。高度経済成長期の造林を軸とした土地の「高度利用」と林野所有の流動化を背景として、入会権を消滅させ、ローマ法的な近代的私的所有に転換しようとしたものだ。ここでは、戦前のように入会林野を解体させつつ地方自治体に帰属させるのではなく、入会集団としての生産森林組合等の法人や個人に帰属させようとした点に特徴がある。これにより1999年までに約57万haの林野が流動化され、うち約21万haが個人所有となり、残りの約36万haが共有持分出資による法人(大半は生産森林組合)所有となった。なお森林の荒廃が進み、住民が高齢化し、税負担が重くなってきたことなどにより、近年、生産森林組合の解散が相次いでいるが、その中で地域の住民による新たな認可地縁団体の設立による森林管理も起こりつつある。

こうして近代日本は、日本の山河や海の総有制を解体し、戦前は国有化、戦後は私有化を進めていった。都市近郊の林野は伐採され宅地化が進んだり、最近では外国人の私有も進んでいる。だが、それでも岩手・秋田・福島などの東北や新潟・長野・兵庫の各県を中心に、今でも多くの入会林野がある。現在の入会林野面積は128万ha、これ以外に国・市町村有林内の入会林野が50万ha、そして林野でない地域集団総有のためいけや雑種地などを加えると、全体で200万haの入会林野があるといわれている。また生産森林組合の中にも入会林野としての利用・管理を維持しているものも多いと言われている。

総有原理の歴史的スケッチ – 資源管理・エネルギー共有

わが国では、近代以前は無論のこと、近代以後にも、総有原理に基づく人々の様々な動きがあった。それを少し確認してみよう。

<江戸時代の森林管理>

江戸時代になって幕藩体制が整い、新田開発を展開した17世紀中葉の日本では、山林の総有的管理について新しいイノベーションが展開された。1648年、岡山の熊沢蕃山は、木の乱伐・切り株の掘り取りを禁止する法令を制定、1654年にも山林の無計画な伐採を禁じ、1656年には山に松を植えるよう郡奉行に命じた。『集義外書』で蕃山は、新田開発で山林伐採が進むと、肥料の採草地がなくなり、飢饉のときの財源である薪がとれず、雨水調節が効かず洪水になりやすくなり、また旱魃になりやすい、と主張している。江戸幕府も蕃山の影響を受け、過剰な開発に歯止めをかけるべく「諸国山林掟」を出して草木根の乱掘の停止、植林の奨励などを命じた。

その後1665年に尾張藩は木曽檜の管理のため、巣山・留山制度を設け、1707年にはヒノキ・サワラ・コウヤマキ・アスナロ・ネズコの五木について御用材以外の伐採を禁じ、「木一本首一つ」と言われる厳しい保護政策が行われ、盗伐を犯した者を厳罰に処した。

<明治時代の森林管理>

近代の山林総有の解体による林野荒廃の脅威から、明治期には数々の山の神講が生まれた。岐阜県多治見市大藪町の山の神講は、明治29年(1897年)、20人ほどが講仲間を組んで始まり、毎年2月の春山の講、12月の冬山の講に山の神を祀る名目で資金を持ち寄り山林の維持を図った。また田の神講・地神講・水神講は、保水や土壌保全、海神講や船神講は海岸の浄化といった目的で総有的資源管理を行った。

<昭和時代のエネルギー共有発電>

佐渡の岩首川では昭和12年(1937年)から昭和20年(1945年)まで、地域部落の住民による岩首発電組合による小水力発電が行われていた。電気を受けることができない山家地区の家には部落共有地の売却金からお金が支払われた。昭和20年に東北配電(東北電力)に施設を譲渡し、その代償として部落が東北電力の株式を所有することになった。

昭和26年、戦時電力体制を基本的に継承して、新たに9電力会社による電気事業の地域私有独占がスタートした。しかし他方、地域団体で小水力発電事業をするために、織田史郎氏は「農山漁村電気導入促進法」を陳情し、議員立法で成立させた。昭和27年には、中国地方に中国小水力発電協会が設立され、町村経営発電所・JA経営発電所・電化農協発電所・土地改良区経営発電所などができ、中国地方で小水力発電が急速に進み、昭和45年までに90カ所に及んだ。発電は雇用を生み、利益は地域の農業関連施設や住宅施設の充実などの経済効果を生んだ。

<平成時代のエネルギー共有原理>

2000年代、特に固定価格買取制度導入後の我が国で、自治体が再生可能エネルギーを地域の共有資源と認識し条例を制定しはじめた。長野県飯田市「再生可能エネルギーの導入による持続可能な地域づくりに関する条例」(2013.4)で、再エネ資源から生まれるエネルギーを「市民共有の財産」と捉え、「市民にはこれを優先的に活用して地域づくりをする権利がある」とした。また兵庫県宝塚市「再生可能エネルギーの利用の推進に関する基本条例」(2014.6)は、再生可能エネルギーは「本来的に地域における共有的資源」であり、「その地域に存在する主体が連携し、地域の受益に配慮して利用されるべきもの」とした。これは、一方で、ここで述べてきた過去の総有原理の伝統の継承である。それと同時に、山河や海洋と共に、新しく再生可能エネルギーを総有的原理の下でエネルギー・コモンズと把握して再生可能エネルギーの推進を図るという、未来に向かった総有原理の発展の端緒がみられるといえよう。

終わりに

個人の人権を尊重することは、私有原理を絶対化することとイコールではなく、また私有の制約は国有ないし公有の論理のみで議論されることではない。人権を持つ市民の総有による地域固有の資源管理こそ、古くて新しい第三の道であることは、2009年ノーベル経済学賞を受賞した政治学者オストロムの主張するところであり、私もそのように考えたい。