一番きれいだったとき − 三島由紀夫と茨木のり子

2019年から20年への年明けは、ソウルで迎えた。思えば、コロナ騒動が起こる直前で、街は平安な空気に満ちていた。

予定もとくに決めていない気ままな正月旅。韓国は、日本と違い旧暦の正月を休日とするので、1月1日は劇場も開いている。では、観劇でもしようかと、日本語字幕で上演されるものを探してみると、一作品だけ見つけたので劇場に向かった。

作品は、「ファンレター」というアンコール上演を重ねているミュージカルだった。劇場は、客席上部のモニター設備があり、上演中に中国語と日本語の字幕が映される。

韓国の若い人気のある俳優陣がキャストだったせいもあって、満員の観客席は圧倒的に若い女性で占められていた。

物語は、日本統治下時代、禁じられていたハングル文学を密かに出版するソウルの学生文学グループを舞台にした切ない恋愛劇。主人公の青年作家にひとりの「日本人女性」から届いた一通の「ファンレター」をきっかけに物語が動き始める。

主人公の青年作家は、病を抱え、自らの命の炎がすでに尽きかけている運命を抱えながら、面識のない熱烈な自分の文学のファンに恋をしてしまう。孤独な若者にとって、自己の理解者を得た喜びは、何物にも代えがたい。詳細はここでは触れないが、さらに二重三重のストーリー展開が加わり、ハンカチで目頭を押さながら長いスタンディングオベーションで大団円を迎えた。

終戦の夏、痛切なまでに理解者を欲した青年は、日本にもいた。

去る5月、NHK『100分de名著』で取り上げられたのは、三島由紀夫の「金閣寺」。

講師を担当された平野啓一郎さんは、ファイクニュースが溢れ、総理大臣までもが平気で嘘をつく時代に言葉と現実の一致を、三島文学を通じて考えてみるのは意味があるという。

三島の右傾化は、40代からで、それまでは政治的発言はない。31歳のときに金閣寺を執筆し、その後10年間、戦後社会で生きる可能性を模索したが望み叶わず、戦後社会を否定し、10代の自己へと回帰して悲惨な最期を迎えた。

三島の死は彼個人の資質だけに帰すべきものではなく、ある時代を経験した人間としての死と捉えるべきだと思っています。幼少期から絶えず戦争が身近にあり、20歳くらいで死ぬと思い込んでいた世代が、突然自由な社会に放り出され、大きなトラウマを抱える。それを克服できた人たちもいたけれど、できなかった人もいて、三島はその一人でした。そんな人間が思想的に先鋭化していった。そのことの意味を考えるべきでしょう。

と平野さんは語る。

終戦を20歳で迎えた三島由紀夫と、ほぼ同じ年齢だったのが、詩人の茨木のり子だ。

10代を熱心な軍国少女として過ごし、1945年8月15日を境に、昨日までを全否定し、急に民主主義万歳と手のひらを返したように喜ぶ社会への違和感。

世界とのズレをを感じた少女は、その違和感を素直にまっすぐな言葉として表現する詩人となった。

隣の国のことばですもの ~茨木のり子と韓国~』は、昨年末に出版された本。著者は1984年生まれの若い韓国人女性、金智英(キム・ジヨン)さん。彼女が立教大学大学院に留学して書いた博士論文がベースになっている。

本書によれば、茨木のり子は、戦後、詩人として文学活動をしていたが、最愛の夫を亡くした50歳の年、1976年からハングルを一人学び始める。

当時は辞書でさえ本屋で見かけないような時代。「ハングルを学んでいます」と周囲に語ると「なんでまた?」と応じられたほど隣国への無関心な時代。ついに1990年には、64歳で日本で『韓国現代詩選』を翻訳出版する。

茨木自身の詩は、いくつかの編纂された日本の現代詩集のアンソロジーの中で、韓国国内では徐々に拡がっていった。

歴史意識の高みからの気負いではなく、「隣国のことばですもの」という詩人らしい軽やかな目線から、「隣国語の森」に分け入った彼女の詩にも通じる「対話」の姿勢が、国境を越えて多くの支持を集めた要因と著者の金さんは、分析している。

茨木のり子の詩、「わたしが一番きれいだったとき」は、そのタイトルが、ひとり歩きし、韓国では、1980年の光州事件や90年代のIMF通貨危機など、厳しい社会情勢を迎えるたびに、韓国の女性作家によって同名の小説として出版され、今でもテレビドラマ化されるほど人気が高い。2017年にようやく韓国国内で茨木のり子の詩集が出版され、いま高い人気を集めている。

 


 

”わたしが一番きれいだったとき

街々はがらがら崩れていって

とんでもないところから

青空なんかが見えたりした

 

わたしが一番きれいだったとき

まわりの人達がたくさん死んだ

工場で 海で 名もない島で

わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 

わたしが一番きれいだったとき

だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった

男たちは挙手の礼しか知らなくて

きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしの頭はからっぽで

わたしの心はかたくなで

手足ばかりが栗色に光った

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしの国は戦争で負けた

そんな馬鹿なことってあるものか

ブラウスの腕をまくり

卑屈な町をのし歩いた

 

わたしが一番きれいだったとき

ラジオからはジャズが溢れた

禁煙を破ったときのようにくらくらしながら

わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしはとてもふしあわせ

わたしはとてもとんちんかん

わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに

年とってから凄く美しい絵を描いた

フランスのルオー爺さんのように

ね”

 


 

今、日本では、人類のコロナ克服を宣言するためと称して、オリンピックが開かれようとしている。

休業せざるを得ない職種の経営者、子供の学校が休校になり、職場を離れざるを得なかった母親たち。生活保護申請数はリーマンショックの頃に並んだ。緊急事態宣言下、持病の手術が延期になっている人、コロナで命を失い、葬儀さえ行えなかった人々、そして感染による後遺症に苦しむ人々がいる。

オリンピック開催反対を訴える街の声に続けて、平気で、オリンピック選考会の様子を満面の笑顔で報道するテレビアナウンサーを観ていると、福島原発の収束宣言が出されたときとおなじ白々しい空気を感じる。

「喜怒哀楽」の「怒哀」を許さない、作り笑顔の「喜楽」のみを演じさせられる社会に言い得ぬ孤独を感じる人々のために「文学」はある。

三島由紀夫も茨木のり子もそれぞれの「人生で一番きれいだった時」に痛切な孤独の中にいた。二人は共に、なんとか日本の戦後社会に折り合いをつけようとした。

前者は、残念ながら40代半ばで暗い闇の中へ落下したが、後者は、50歳からハングルを学び、国境を越えて孤独な魂同士を共鳴させあうことで、新たに道を切り開いた。

私たちの周りには、見えない天井、見えない壁の中で、過ぎゆく「一番きれいだったとき」を黙って、耐え忍ぶことを強いられている大勢の隣人がいる。

「隣の人の言葉ですもの」と軽やかに、声なき声に耳を澄ましながら生きていきたい。